愛すべき茶碗たち

 私にとってのやきものとは、言葉を使わずに書かれた本のようなものです。何度読み返してもまた新たな発見があるのが読書の楽しみのひとつですが、やきものにも同じ事が言えると思うのです。茶碗は、そういう「やきものを読む」ことの醍醐味を存分に味わせてくれるやきものです。茶筅を動かし、両手で抱え、すいきるまでの動作の中で、お茶の緑色、細かな泡の表情と器肌の出会いを楽しみつつ、使用による変化、器の成長を愛でる醍醐味もあります。お茶を点てるという一連の動作の中にある茶碗というやきものは、ただ注いで片手でもてる酒盃よりも、もっと身近にいろんなことを感じさせられたり、考えたりすることができる気がします。

 茶碗も酒盃同様、自分がその時間を楽しめるかどうかという基準だけで、古今東西気にせずに選んでいます。なるべくなら自分の目で、自分の生きた時代の茶碗を選びたいものですが、やはり古い物に心を奪われてしまうことが多いのは何故なのでしょうか。現代の茶碗は多かれ少なかれ、作家さんにとって個性の表現媒体としての役割を背負わされてしまっている分、少し茶碗にとっては荷が重すぎるのかも知れません・・・そんなことを思うのは私だけでしょうか?

 どれもすさんだ私の気持ちを癒してくれる、頭の下がるような茶碗ばかりであります。またネットを通して譲っていただいたものもあります。この場をお借りして心から感謝いたします。

 

1. 唐津

 産地の分類からいけば、茶碗でもやはり唐津が一番好きです(世間では一楽二萩三唐津、なんて言いますが・・・)。古唐津で私の手元にあるのは勿論全て雑器生まれ、「米量手」などと称される、おそらくは飯茶碗の用途に作られたものばかりです。しかし思い切りのいいスピード感溢れる轆轤、様々な表情を見せる高台、固く焼きしまった土味など、唐津焼はみな健康そのもの、単純でありながら実に魅力的です。現代作は総じて焼成、土味、造形ともに、どうしても古唐津とは大きな隔たりを感じてしまいますが、雰囲気のある茶碗に出会えると嬉しくなります。

 古唐津(天神ノ森窯) 銘 井蛙

 古唐津(松浦系、窯不明)

 古唐津(青唐津、窯不明)

 古唐津(青唐津、窯不明) 銘 不老泉

 古唐津(松浦系、窯不明) 銘 種子島

 田中佐次郎(佐賀・半田(現在は山瀬))作 絵唐津茶碗

 田中佐次郎(佐賀・半田(現在は山瀬))作 斑唐津茶碗 銘大涛

 辻清明(東京・奥多摩)作 絵唐津茶碗

 西岡小十(佐賀)作 朝鮮唐津茶碗

 

2. 萩

 古萩も「むさし野」のような名碗は別にすれば、むしろ近・現代陶に惹かれることが多い気がするのが私の萩焼に対する感想です。それだけこの地には現在も茶碗窯としての伝統が息づいているということなのでしょうか。吸水性の高い萩の土は本当に茶碗向けだと思います。ただ、お湯を注ぐと同時にそのままだだ漏れしてくるような茶碗は、どんなに見てくれがよかろうと(良かった試しがありませんが)興ざめです。シリコン充填する方までいらっしゃるそうで、最悪です。

 萩茶碗 銘 初孫

 十代三輪休雪(休和)(物故)作 萩焼茶碗

 十一代坂高麗左衛門(物故)作 萩焼茶碗

 吉田萩苑(物故)作 萩焼茶碗 

 宇田川抱青(物故)作 白萩汲み出し碗(小服)

 

3. 高麗茶碗

 茶碗の王者といわれる高麗茶碗ですが、本歌で私の手に入るのは、近年発掘の雑器たちを茶碗にみたてたものばかりです。多くの名碗のほとんどが、当初は雑器からみたてられたともいわれていますが、勿論現代ではとても満足に選別できるような状況ではありません。それでも十分に喫茶を満足させてくれるものを比較的手頃な価格で楽しめるのは、嬉しい限りです。しかし高麗茶碗は現在まで大変多くの陶芸家が特に気合いを入れている分野ですし、土も釉薬も轆轤も様々ですから、真贋の見極めは大変難しいです。いろんな方がいろんなことを仰有っているようですが、見どころなど全く意識せず、ずばっと挽きあげられ、無造作に釉がけされ、かっちりと焼き上がったものなら、私は美味しいお茶が頂けるので満足です。

 堅手 銘鳴門鯛

 堅手 

 堅手小服(高麗)

 堅手平

 会寧

 無地刷毛目

 高麗青磁平 銘虫さされ

 高麗青磁平 銘池童

 高麗白磁平 

 番浦史朗(三重・伊賀・物故)作 伊羅保

 田中茂雄(京都)作 柿の蔕

 

3. 美濃・瀬戸(志野・瀬戸黒・織部・黄瀬戸)

 美濃陶は大変に高価で、私の懐具合で桃山時代の本歌に手が届くはずもなく、当然現代陶を見ることになります。戦国の世に武将の茶碗として焼かれたと思われる豪快な造りを、現代の陶工に求めるのは無理があると思いますが、ときどきぐっと惹かれる碗相に巡り会います。憧れの茶碗は、やはり卯花垣・・・。

 加藤十右衛門(岐阜)作 志野茶碗 銘 啓蟄

 加藤惇(愛知・瀬戸)作 粉引茶碗

 中島勝乃利(愛知・瀬戸)作 オリベ茶碗 銘 碧

 酔陶居(京都)作 志野茶碗

 

4. 京都(楽など)

 利休の意がストレートに込められた楽茶碗。長次郎の茶碗には吸い付けられるような存在感があります。造形的には光悦なら「乙御前」、他にも宗入の「亀毛」は大好きです。本当に心惹かれる楽茶碗との出会いは、悲しいことにいつも美術館のガラス越しですが・・・。

 作者不明 黒

 作者不明 黒

 作者不明 赤

 松風庵(?)作 赤

 太田垣蓮月作 平

 

5. 焼締 (備前、信楽、伊賀、越前、常滑など)

 口当たりがざらつく、茶筅が傷む、熱の伝導性が高すぎるなど、一般にはあまり良い評価を受けていないようですが、茶映りは最高の茶碗だと思います。良土に映える緑は、何よりも豊かな大地の恵みを連想させませんか・・・?ですから灰がたっぷりかかったものよりも、良土が前面に出ているような焼成が好みです。堅く焼き締まっていても、柔らかさを感じられる肌。大自然の一部をそのまま切り取ってきたような、碗相。しかし思い入れが強すぎるせいか、古陶でもなかなかこれという茶碗に出会えません。根津美術館蔵の備前茶碗「筧」は、窯変ではありますが強く惹かれている一碗です。

 時代不明 信楽半筒

 金重巌(岡山・備前)作 伊部茶碗 

 大迫みきお(愛知・常滑)作 碗

 

6. その他の個性的な茶碗

 1.〜5.のようなジャンル分けは本意ではなく、茶碗は全てこれ一碗、その意味では全てが創造であり、独自の茶碗だと思います。茶碗であるという以上に様式を区別する意味は全くないはずです。陶芸家の皆様には自由な精神で作りたい茶碗を作ってほしいと願っておりますし、それを許す市場を茶道文化の発祥国として守っていかなくてはいけないでしょう。使う側から言えば、思い描いていた理想の茶碗像を綺麗に壊されても、なお感動させられる茶碗に出会えたときが最も嬉しい瞬間かもしれません。それは決して「常日頃愛用できる」ようなものでなくてもいいのです。

 石山哲也(滋賀・信楽)作 象嵌

 河井寛次郎(京都・物故)作 鐵緑釉面取碗

 作者不明 唐津風

 番浦史郎(三重・伊賀・物故)作 玄釉

 足立博昭(京都)作 鉄釉茶碗

 熊野九郎右エ門(石川・越前)作 熊志野ぐい (小服として)