ちいさきものたち〜「振出の魅力」

 一合もとても入らぬような、掌中におさまってしまうほど小さな徳利型のうつわがある。薬味入れとして作られたとも言われるが、祭器として生まれ、かつては仏前や神棚にそなえられていたものも多いのではと思う。これが現在、茶の世界では「振出(ふりだし)」といって、寄付で香煎を入れて出したり、茶箱に仕組んで金平糖など小粒の菓子を入れる容器として用いられるそうである。いずれにせよ酒器ではない。「徳利の価格は容量で決まる」と言われるが、ままごとに使うような徳利で大切な酒の時間は楽しめない、というのが大方の意見である。実際その通りだと思うが、ある日そんな酒が意外にも心に響いてきた。

 「伽羅者」と名付けられた大変小さな掛け分けの、首を全部後補した朝鮮唐津徳利が私のところにやってきた。その日の夜、私は古ぼけた木盆の真ん中に彼を据え、いつものように盃の吟味に入った。だが何を添わせてもしっくりこない。結局上からつぶれるようにひしゃげた、初期伊万里の小盃を水で清め傍らに置くと、キンキンに冷えた麒麟山の生酒を、「伽羅者」に慎重に注いでみたのだった。ぐいのみ一杯分、といった量であった。溜息が、自然に出た。

 李朝の豆皿に塩辛を数片盛りつけ、盆上に運ぶ頃には、器肌はしっとりと汗ばんで、雄大な景色が現れているのだった。私は静かに徳利を手に取り、徳利の世界に入っていった。森へ分け入り、谷を抜け、岸壁にはりつき、滝を登る。霞の中に浮かぶ黒々とした眼下に、立ちこめる青い霧が雲となってゆっくりと動いていた。ゆっくりと傾ければとくとくとくと・・・迸る清水の如き酒が、掌中の盃に、落ちた。・・・口中をしめらす程度の酒でも、結構楽しめるではないか。

 古来より日本人は特に小さきものを愛でてきた。一寸法師。盆栽。たなご釣りなどその最たるものだろう。小指のような大きさの魚にあわせ、極小の仕掛けを用意し、専用のたなご竿で狙う。しかもこの釣りは魚の数や釣った量を競うのではなく、手のひらの上に何匹のたなごが乗ったかと、ひたすら極小を求めるのである。

 一碗の茶に宇宙を感じ、一幅の山水画に大自然を、連綿と続く人の営みを思う。大は小を兼ねるというけれど、小をして大を知ることができるのもまた、人間であると信じたい。

・・・そんなこんなで数年が経過し、世間ではさして需要のあるわけでもないこれらの小さきやきものなら、私にも背伸びすれば手が届いたという理由も手伝って、数本の「振出」が集まった。少ししか酒を受け入れられない彼らではあるが、酒量以上に私の心を満たしてくれている。今まで頑張ってくれた肝臓のためにも、ここはひとつ振り出しに戻って、一口の酒を静かに長く、心豊かに味わってみようと思っている。

<振出徳利>

朝鮮唐津振出「伽羅者」(桃山〜江戸時代初期)

斑唐津振出(桃山〜江戸時代初期) new

黒唐津振出(桃山〜江戸時代初期)

黒唐津振出(桃山〜江戸時代初期:沖縄出土)

瀬戸鉄釉振出(江戸時代初期)

李朝白磁振出(朝鮮王朝時代初期)

宋古録白釉振出(16世紀頃)

<とその仲間達>

李朝堅手筒盃(朝鮮王朝時代初期)

初期伊万里鎬盃(江戸時代初期)

阿蘭陀盃(明治時代頃)

宋古録青磁盃、青磁鎬盃