自分を移入できる酒器をもつこと

 酒を飲むということは、自分との異次元上での対話であると思います。目をつぶって飲むのもいいものです。しかし、いつもそうしているわけにもいかず、独酌しているとき、目がいくのは相対している徳利と、手に持った盃です。

 酒を飲んで、やきもののすばらしさに出会えたのはとても幸せなことでした。徳利の口からたれた一滴をなすったり、酒の注がれた盃の見込みの向こうに、遠い日の思い出を重ねたり・・・

 酒器はさまざまにあなたに語りかけてきます。それは一点の染みだったり、欠けだったり、はぜた跡だったり・・・一心不乱に轆轤を回す陶工が見えたり、窯の灼熱の中で炎になめられる姿だったり、あるいはまたその酒器が見つめてきたであろう、たくさんの人間模様、時代の変遷・・・あるいは器の直しの痕に、思いを託した数寄者の心情を汲み取る人もあるでしょう。

 酒器は毎晩向かい合い、手にとっていじりまわすものです。その姿に励まされたり、諭されたり、また共に喜んだり、泣いてくれたりもします。そうかと思うと、ただ黙して土の塊となって、超然とたたずんでいたりもします。酒器とは自分はおろか、ときには自分に足りないもの、自分の憧れをも投影してくれる鏡のようなものかもしれません。

エリマキシギ 撮影:syurann-syurann

 気に入りの酒器を見つけることは実はとても難しいものです。しかし星の数ほどもある、それぞれの酒器との出会いは一期一会、まずは気に入ったものをひとつ探して、とりあえず飲んでみて下さい。巷で出版されている酒器の本に目を通すのもいいし、イメージをふくらませに陶器売場に行くのもいいでしょう。あるいは、デパートの美術品売場などで、陶芸作家入魂の一点を探したり、骨董市や古美術店に足を運んでみては・・・。器はそれぞれ個性をもっていて、あるものはふんぞり返っていたり、あるものはつんとすまして・・・様々な表情であなたを迎えるでしょう。そんな中に、今にもあなたに酒を注がれるのを待っているかのような顔をした酒器が必ずあります。そういう自分自身の「感じ」は、往々にして価格と全く関係ないものです。わくわくして家路を急ぎ、包みを開くと、小さな盃はお店で見たよりも一層の輝きを放ちます。そしていろいろなことを語りだすのです・・・一言目はもちろん・・・「さぁ、酒を入れておくれ」(笑)です。

 しかし・・・どうも酒の器に求めるものは際限がないようで、あるとき急に何か物足りなく感じだしたり、自然と別のものを思い描いたりしてしまったりするもので、求めていくうちに「いったい自分はどうなってしまうんだろう。どこまで求め続けるんだろう」などと考えて怖くなってしまいます。でもいつか必ず、自分をどんと受けとめてくれる、すべてを預けられる酒器に出会えることでしょう・・・かくいう私も、どれかひとつと言われると困ってしまうのですが、だんだんといつも使うものは限られていっています。それでも、一度惚れ込んだ盃はやはり手放したくない、と思うもので、ある意味それは自分の内面の変遷を見ていくような面白さ、いや怖さがあります。あまり人に見せるような物ではないのですが・・・

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