蓮月釘彫自詠和歌盃

太田垣蓮月作(幕末)

 

 太田垣蓮月は幕末京都三本木出身の尼僧。二度も夫に先立たれ、前後して四人の実子を失うなどの悲惨さを味わった後、剃髪し蓮月を名乗った。その美貌ゆえ言い寄る男性があとを絶たず、困り果てた蓮月は自ら抜歯して人を遠ざけたという。和歌、書に優れた才能があり、加えて囲碁もかなりの腕前だったようだ。養父の死後岡崎に移り住み、近隣のおばさんに陶器造りを進められ、手びねりの器に自詠の和歌を刻んだ独特の陶器を作出し人気を博した。その後も飢饉救済のため募金をしたり、丸太町の橋を架けたりと、ボランティア精神にも溢れた人柄だったようである。六十才の頃、富岡鐡斎が侍童として共同の生活を送り、終生彼を可愛がった。遺言にも、『無用の者が消えゆくのみ、他を煩わすな、富岡だけに知らせてほしい』としるされていたという。生みの子すべてを失った蓮月尼にとって、鐵斎は我が子のような存在だったのかも知れない。享年八十五才。

 こんなエピソードもある。戊辰戦争のさい、三条大橋を通りかかった官軍に蓮月は歌を渡す。取り次いだのは、西郷隆盛だった。

あだみかたかつもまくるも哀れなり 同じ御国の人と思へば

幾多の勤王志士をかくまいつつも(度重なる転居はそのせいとも言われる)、内戦の悲劇をストレートに詠ったこの歌に、幕末の動乱期という時代にありながら、もっと普遍的な真理を説くことのできた蓮月のすごさを強く感じる。この歌が、江戸城の無血開城を後押しすることになったとも伝えられる。

 私が京都に来て初めての住処が、偶然にも岡崎の近辺であった。また職場に行くのに毎日丸太町橋を通っていたのだが、これも蓮月尼ゆかりの橋だったとあとで知り驚いた。京都でもたまに蓮月尼の急須や徳利、盃、煎茶碗等を見せていただける機会があったが、どの作品にも独特の筆致で和歌が釘彫り、もしくは鉄で書き込まれており、どこか雅味があって素晴らしい。この盃には

ちよ(千代)こもるまと(窓)の若竹日にそひてめて(で)たきふし(節)のかすやか曽(数)へん

と彫られている。若竹とは鐡斎のことなのだろうか。神宮道に面した某古美術店で購入。

願わくばのちの蓮(はちす)の花のうえに くもらぬ月をみるよしもがな(辞世)