古曽部徳利 明治時代

 古曽部焼は寛政年間の初め(18世紀末)ごろ、京都・清水で製陶技術を習得した五十嵐新平が、大阪高槻市の古曽部の地で開いた登窯にはじまる。5代目まで続いたがそこで廃窯となったらしい。作風は全体に淡い彩色や流麗・軽妙な画風、素朴な造形などを特徴とし、飯茶碗や小皿、湯呑み、酒器などの日用雑器のほか、抹茶碗や水指、茶托、香合なども焼かれた。小堀遠州が指導した茶陶、遠州七窯に数えられるような逸品もつくられている。幕末から明治初年にかけては、料亭などの大量注文に応じてつくられることも多かったようだ。ひなびた味わいの茶器類は、特に京阪間の文人たちに愛好され名声を博したという。百人一首に「あらし吹く三室の山のもみじ葉は龍田の川のにしきなりけり」というのがあるが、これは古曽部に住み着き生涯を閉じた僧、能因法師の詠んだ和歌である。一説には古曽部焼は能因法師がひねり作ったのが初めであったともいうが、これは定かでない。この安南写しと思われる徳利は底の銘印から4代目の作と思われるが、絵付けといい造形といい、酒脱で味わい深いものがある。やきもの好きで有名だった小説家F氏旧蔵。