あんあんあん とっても大好き

2001年春より仕事の都合で京都にやってきました。

 こちらの部屋で初めての朝を迎えて(なんかエッチな響きだ)、外に出て最初にあぁ、ここは京都なのだと感動したことがあります。それは・・・小豆のにおいがしたことです。

 実は下宿のすぐそばに製餡所があったのです。気が付けばここは聖護院界隈。八つ橋のお店を始め、和菓子屋さんがたくさんあるではありませんか。

 思いついた最初の贅沢、それは「利き生八つ橋」。(^_^;)

早速井筒屋、西村屋、聖護院八つ橋本舗、京栄堂の生八つ橋の皮(皮が特に好き)を買ってきて、食べ比べました。

結論から言うと、皮に大差はない、ということでした。どれも美味しい。でも、それぞれ微妙に甘味やニッキの強さ、歯ごたえに違いがあることも判明。

ところで、私は京都の人はもっと日常的に生八つ橋を食べているものだと思っていました。ところが、さにあらず。和菓子を大変よく召し上がる方も、生八つ橋というと「おみやげ」というイメージが強いようです。職場に持っていったら「3年ぶりに食べたで」なんて仰有る方までいる始末・・・

たしかに、京都には素晴らしい和菓子屋さんが多く、地元の方でいつも行列のお店も少なくないです。そういうお店の和菓子を食べると、米本来の自然な甘さの感じられるきめ細かい餅、その甘さを殺さず小豆の香りがふわっと抜けるような柔らかく優しい餡を基調として、実に繊細にデザインされた味覚の設計に驚かされてしまうのです。そして宇治の茶のほろ苦さが、実に壮大に、口中で甘味のシンフォニーをまとめあげていくのです・・・

悠久の時の流れが生み出すたしかで力強い波動が、ここ京都にはたしかにあって、私のような新参者の心はあらゆる場面で躍らされるのです。しかし同時に、決して妥協を許さないその波動に圧倒されるばかりで同化できない寂しさも喚起するのでした。ほの暗い6畳一間の部屋に一人戻り、茶を点て、豆餅の奥深い味わいに酔いながら、目に入る流し台の上の笛吹ケトルがどこかミスマッチで、でもそれがある意味自分のような気がして、なんとも愛しいような、哀しいような気分になって、またぽつねんと茶溜まりに残った細かい泡を見つめるのでした。